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【書評】人生は一人でも楽しい〜105歳現役美術家に学ぶ〜『103歳になってわかったこと』感想レビュー

ニンゲンの悩みの根源は、人間関係から来ていると考えている、哲学者阿吽です

社会で生きるニンゲンにとって、他者との関わりがなければ生きてはいけません。それは直接的なものも間接的な関わりもあります。何事も行き着く先は人間関係です。そんな、日々人間関係に勤しむニンゲンにおすすめしたい、ぜひ読んでいただきたい本の紹介です。

 103歳になってわかったこと表紙
103歳になってわかったこと表紙
「103歳になってわかったこと」〜人生は一人でも面白い〜篠田桃紅作


篠田桃紅とは?

1913年生まれ、105歳の現役美術家です。生まれは中国で、幼少期より墨と筆に触れ、以後独学で書を極めます
1956年渡米し、ニューヨークを拠点にボストン、シカゴ、パリ、シンシナティで個展を開催
1970年東京に転居し、現在に至ります。数々の作品を生み出し、本も多数手がけています

 103歳になってわかったことテーマ
103歳になってわかったことテーマ
103歳になってわかったこと

第一章 102歳になってわかったこと

自らに由れば、人生は最後まで自分のものにできる。

 私は生涯、一人身で家庭を持ちませんでした。どこの美術団体にも所属しませんでしたので、比較的、自由に仕事をしてきました。自由というのは、ただ気楽に生きていることです。
 自由という熟語は、自らに由ると書きますが、私は自らに由っていきていると実感しています。自らに由っていますから、孤独で寂しいという思いはありません。むしろ、気楽で平和です。

自らの足で立っている人は、過度な依存はしない。

 24歳で実家を出てから、一人で暮らしていますが、孤独をあたりまえだと思っています。ごく自然に、一人でいることを前提に生きてきました。人に対して、過度な期待も愛情も憎しみも持ちません。人々は口をそろえて「人は一人では生きられない、お互いに支え合って生きるものだ」と言うものです。しかし、古来の甲骨文字の「人」という字は、一人で立っています。日本の線が支え合わないと成り立たない「人」とは違い、相手への過度な依存はしません。過度な期待や愛情は、その人の負担になったり迷惑になったりもします。それに気づいていない人が多く、注意もできないので周りが困るのです。

長く生きたいと思うのは、生き物としての本能。年老いるとそうなる。

 あまり長生きしたくないという人がいます。それは偽りだと思います。皆、やはり長生きはしたい。生き物としての本能で、誰だって死にたくないはずです。
 私はいつ死んでもいいと言う人がいます。それは言っているだけで、人生やるべきことやった、と自分で思いたいのです。やるべきことが多すぎて、その負担から逃れたい、負担を軽くしたい・・・・・・
 いつ死んでもいいと言っている人ほど死にたくなくて、自分に言い聞かせているだけなのです。生きている限り、人生は未完です。

食べ過ぎてはいけないし、少なすぎるのもいけない。

 日本特有の「いい加減」は、すばらしい心の持ち方だと思います。ほどほどに余裕を残し、決定的なことはしない。このような日本の文化は他国にはなく、余白を残し、臨機応変に、加えたり減らしたりすることができる「いい加減」の精神があります。
 中国の孔子は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と、度が過ぎることも、不足することも、同じように良くないと言っています。そして「中庸の徳たるや、それに至れるかな」と、ほどほどにしておくことは高い徳に至ることができる、と言っています。
 食事、睡眠、仕事、家事労働、人間関係など、あらゆる面で、その人に合ったいい加減さを保つことができれば、もう少しの長生きを望むことができるのではと思うことです。

第二章 何歳からでも始められる

自分の目で見れば、新しい発見、新しい喜びがある。

 人は、説明を頼りに何かを見ていると、永遠に説明を頼りに見るようになっていしまいます。例えば、それが絵であれば、絵の鑑賞の幅を自ら狭めていることになります。パソコンや携帯電話などの機器を買うとき、人を頼りに買っていれば、使うときも人頼りになります。機器を使いこなす楽しみを自ら放棄していることになります。参考にできることは、お互いに参考にしたほうがいいと思いますが、頼るのではなく、自分の目で見て、考えることが重要です。

受け入れられるか、認められるかよりも、行動したことに意義がある。

 誰かがやったことを自分もすることは、誰にでもできます。しかし、まだ、誰もやらないときに、それをやった、ということが大事です。その行動が自分の自信に変わり、評価に変わります。その行動の結果が、受け入れられるか、受け入れられないかはわかりませんが、なかには、高く評価してくれる人がいるかもしれません。誰もやらないときにやった人がいたから、新しい境地が拓け、後世の私たち、そして未来に享受することができるのです。

予定や目標にとらわれると、ほかが見えなくなる。ときには、その日の風まかせにする。

 人生は、道端で休みたいと思えば休めばいいし、わき見をしたければわき見をすればいいと思っています。今日中にあそこまでいかなければならないと決めるやり方より、自然のなりゆきに身をまかせるほうが、無理がありません。そのほうが私の性に合っています。
 規則正しい生活が性に合う人もいるでしょう。計画を立てないとならない事情も、ときにはあるでしょう。しかし、あまりがんじがらめになると、なにかを見過ごしたり、見失っていても、そのことに気がつきません。

なんとなく過ごす。なんとなくお金を遣う。無駄には、次のなにかが兆している。

 人は、用だけを済ませて生きていると、真実を見落としてしまいます。真実は皮膚の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかし、どこかにあります。雑誌や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。
 無駄にこそ、次のなにかが兆しています。用を足しているときは、目的を遂行することに気をとらわれていますから、兆しには気がつかないのです。無駄はとても大事です。無駄が多くならなければだめです。

第四章 自分の心のままに生きる

相手に従うのではなく、お互いに違うことを面白がる。

 様々な人種、文化、習慣を持つ人々が集まるニューヨークでは、なんでもあり。お互いに文化を持ち寄っているので、なにがいいかなんて決めつけることはせずに、違うことを面白がっている。影響を受けることも、それによって変化することもいとわない。

知識に加えて、感覚も磨けばものごとの真価に近づく。

 世の中の風潮は、頭で学習することが主体で、自分の感覚を磨く、ということはなおざりにされています。知識は信じやすいし、人と共有しやすい。誰しも学ぶことで知識を得る事ができます。しかし、時には知識ではなく感覚で楽しむことも重要です。感覚は自分で磨いていくことで、そのものの真価を深く理解することができます。

第四章 昔も今も生かされている。

身を挺して、悩み苦しみを書き著わした 天才・芥川と太宰

 二人とも三十代の若さでしたが、常識とされていた意見に対して、勇敢に否定し自分の判断をはっきりと口に出していました。そして、人を慈しみ愛する気持ちがあったからこそ苦しんだのだと思います。人がどう生きるのかは永遠のテーマである、ということも教えてくれました。

運命の前では、いかなる人も無力。だから、いつでも謙虚でいる。

弱いというよりは無力でなんの力もない。どんなに愛する人でも、さっと奪ってしまいます。運命には抗えない。

未来永劫、全人類にとってありがたい、母という存在。

母がいるから人は生まれ、母性に守られて育つ。神様の次に全人類がその価値を認めざるを得ないし、未来永劫、人類が存続するかぎり尊い価値であることに変わりはありません。

まとめ

現在105歳となった、篠田桃紅
一人身であるがゆえに、自分に由った生活を営みます
人生の先輩が語る言葉は重く心に響くでしょう
この本以外の本も機会があれば書評に・・・